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「フレンドルール」に関する私見と否定的立場の明言

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厨二 『オリカを作り続けはや六年』 厨二 (phenix)
「フレンドルール」に関する私見と否定的立場の明言
<1.「フレンドルール」の否定>
最初に明言しておきますが、あくまでフレンドルールを否定しているのは厨二個人であり、決してフレンドルールを肯定している方々そのものを否定するものではありません。このコラムではあくまで「どのような人が」「どのような『カードヒーロー』を好むのか」について述べているに過ぎず、普遍的にフレンドルールを否定できるものではないと自身で理解しています。

フレンドルールについて考察することは、そのまま「カードヒーローをどのようなゲームとして捉えるのか」について考えることにもなりますので、「こんな捉え方もあるんだな」という参考程度にでもなれば幸いと思います。

<2.カードゲームとは何か>

カードゲームの勝負を決定づける主たる要因は3つに大別できます。

a.カードパワー
そもそものカードの性能が、勝負を分ける要因となることはカードゲームにおいて決して珍しいことではありません。

b.プレイング
プレイヤー自身の思考力などによって、カードを最大限に活用するプレイングは、勝敗を分ける大きなファクターとなります。
後述しますが、フレンドルールを肯定的に考える方はこの「プレイングによる勝負」を主として楽しみたい方だと思います。このことは、厨二がフレンドルールを否定的に考える理由に繋がっていきます。

c.運
一番小さい要素ですが、同時に最後の決め手となりやすいものでもあります。
運に関してはまた別で考察するので、次項からはa、bの2点に焦点を当てていきたいと思います。

これらの要素を掛け合わせて、その総数の大きい方が勝利する――というのがカードゲームの基本であるかと思います。

さて、フレンドルールの主目的は「公平なルール」を作ることだと認識しています。

その為の手段として「パワーカードの禁止・制限」をしているかと思いますが、実はこの手段は上記のaの勝敗を分ける要素「カードパワー」を殆ど廃してしまっています。

ヤミーに関して「絶対劣勢の状況から勝負を覆してしまったことがあった」のが問題だという意見がありましたが、そもそも「カードが勝敗を決する」のは、「カードを使って遊ぶ」カードゲームとしては寧ろ自然とさえ言えると思います。

つまり「1枚のカードのパワーによって勝敗を逆転する」というカードゲームとして「あり得る勝敗の決し方」を根本から廃してしまっているのがフレンドルールです。

カードゲームを構成する大きな要素を一つ、殆ど丸きり損なわせてしまうフレンドルールは、ゲームをつまらなくする悪ルールでしかないというのが厨二の私見です。

ただ、これはあくまでカードヒーローを「誰にでも楽しめるカードゲーム」として成り立たせようとした場合の話ですので、次項では「誰にでも楽しめるカードゲーム」について考察していきたいと思います。

<3.「公平」と「公正」>
前項ではフレンドルールの目的を「公平なルール」を作ることだと記述しましたが、そもそもフレンドルールはその目的を達成出来ていないのです。

「公平」とは「誰にでも勝ち目がある」ことを指し、決して「カードの性能に頼らずに勝負する」ことではありません。そもそも、前項bで述べたプレイングの差で勝負することを強要する以上、フレンドルールは「プレイングの上手い人間がほぼ確実に勝つ」ルールであるということになります。フレンドルールがなければ、「勝つ」人間は前項a、b、cのいずれかでも優っていれば「勝ち目がある」のに対し、フレンドルールではプレイングに差があった場合、残る勝負の要素は「運」だけになってしまうのです。このルールのどこをどう見たら「公平」と呼べるのかは、甚だ疑問です。

が、同時にフレンドルールは「公正なルール」でもあります。

「公正なルール」とは、ボードゲームで喩えるならばチェスのルールに近いものがあります。

即ち「平等な条件を課すルール」が「公正なルール」なのです。

なるべく両プレイヤーの条件が平等になるようにパワーカードは制限・禁止にしているわけですから、当然フレンドルールは公正なルールと呼ぶことができます。

さて、「カードの力によって勝てる場合もある」カードゲームと、「プレイングの差には抗うことのできない」カードゲーム、そのどちらを「公平」と呼ぶのが相応しいのでしょうか。

「8あり・8なし」に関しても似たようなことが言われていますが、「強いカード如何で勝敗が決まってしまう、勝敗が分かっているゲームにはやる意味がないし時間の無駄」というような意見があります。

それはそっくりそのまま、フレンドルールにも当てはまるのだということは自明だと思います。プレイヤーのスペックで勝負が決まるのであれば、そもそも試合前から「勝敗はほぼ決し」、試合の途中で「もう勝負が確定した」場面が訪れてしまうのです。これ即ち、いずれかプレイヤーの勝利がほぼ確定した後のゲームは(大劣勢を巻き返せるほどのパワーを持つカードは禁止・制限されている訳ですから)まさに「時間の無駄」。「負けるのが分かっているのに無駄なゲームを続けなければならない」ということになります。

もちろんそのプレイング技術を向上させるのを愉しみとするならば、フレンドルールは素晴らしいルールでしょう。

では次項ではこのことに関連して、「どのような人にとって」「フレンドルールは向いているもしくは向いていないのか」について考察していきたいと思います。

<4.カードヒーローとは何か>
カードヒーローの持つ特性として、「カードゲームの要素とボードゲームの要素を併せ持っている」というものがあります。

これは大きなカードヒーローの魅力の一つなのですが、そのある意味での二面性が原因で、カードヒーローには二つの進化の可能性が生まれてしまっています。

フレンドルールによる進化は、謂わば「排他的進化」と形容することが出来るでしょう。何故なら「誰にでも勝ち目があるわけではない」以上、ある程度「勝負になる」人間のみに、カードヒーローをプレイする意義が生まれることになるからです。

純粋な読み合いの能力その他、プレイング面「のみ」を「楽しい」と感じられるその人が、フレンドルールに「向いている」と言えます。カードヒーローの「ボードゲームとしての側面」に重きを置く人と言い換えることもできます。

対してフリーの場合、これはカードゲームの要素をフルに楽しむ謂わば「大衆向けのルール」と呼ぶことが出来ます。カードヒーローの「カードゲームとしての側面」に重きを置く人に向いているとも言えるでしょう。

厨二はカードヒーローの本質を「カードゲーム」だ(逆に「カードゲームとしての要素」を活かさなければカードヒーローの意味がない)と考えていますから、フレンドルールには否定的にならざるを得ないというだけの話です。

総括しますと、「現在の大多数のカードヒーロー好き」にとってはフレンドルールが(失礼を承知の表現を用いますと)「都合の良いルール」であり、「正しい進化」であると言うことができます。

ですがカードヒーローをもっと多くの人に楽しんでもらいたい、あるいはもっとカードヒーローの特徴を活かしてやりたいと考える場合には、「カードゲームとしての要素」をしっかりと涵養してやることが必要であると、個人的には考えています。シリーズオリカに始まる厨二の「行き過ぎたオリカ」の背景には、こうした考え方があるのだということを理解してくだされば(あるいは、理解せずとも暗黙の内としてくだされば)、これ程嬉しいことはありません。

最後に、表題にもあります自己の否定的立場の明言と、厨二の「カードヒーロー」に対する考え方を示しまして、最終項とさせて頂きます。

<5.カードヒーローの大衆化の是非>
「フレンドルールの上で多くの人にカードヒーローをやってみて欲しい」というのは、別段特別な心理でもなく、フレンドルールを否定する立場の厨二としても大きく理解できるところです。

面白いゲームがあるから他の人にもプレイしてみてもらいたい、と思うのは至極自然な心理ですし、「カードヒーローをもっと多くの人にプレイしてもらいたい」という願いはカードヒーロー好きの方なら少なからず抱いているかと思います(少なくとも厨二はそう考えています)。

ですが、一方的に「プレイヤー」を「ゲーム」の側に合わせさせようとしているようでは、いくら「面白いから」と言われても「いや、自分はそういうゲームはやりたくないから…」と、中々プレイしてもらえないというのは考えれば自明のことです。

ましてやフレンドルールという「プレイング至上主義」のルールでは、到底カードヒーローを新しくプレイする気にはなれません。「ゲーム」の方から「プレイヤー」の方に歩み寄る、ということが、時には重要であるというのもご理解ください。

そういった意味で、フリー(制限なし)というのは、決して「強いカードを使って俺TUEEEE!する」だけのものではないのです。寧ろカードヒーローが、ある意味では(その是非は兎も角として)「カードゲームとしてあるべき姿」になることができる、ということでもあります。

個人的な願望として「カードヒーロープレイヤー増加」というものがあり、その為に「カードヒーローの大衆化」が必要である、逆に言えば「カードヒーローは排他的であってはならない」という個人的な考え方がある。それ故に厨二はフレンドルールを否定する。

稚拙な文章でしたが、以上が厨二の「フレンドルール」というものに関する結論であります。

フレンドルールを肯定する方々への謝辞と厨二の意見に対する理解の懇願を持ちまして、このコラムを終わりにさせて頂きます。