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オカルト入門講座2「キリスト教」

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ガバリス伯爵 『あなたを誘惑する』 ガバリス伯爵 (gabalis)
オカルト入門講座2「キリスト教」
キリスト教が成立したのは1世紀の終わりごろです。人類の歴史からみれば比較的新しいと言えると思いますが、キリスト教が西洋社会に与え続けている影響力ははかり知れません。もちろん、オカルトにも多大な影響を与えました。しかし、そのキリスト教自体もオカルトがなければ成立しませんでした。

キリスト教は古代密儀宗教の影響を色濃く受け成立しました。現在のミサにもどこか密儀的な儀式が残っているのはそのためです。聖餅と言われるパンと葡萄酒をイエスの肉と血として授かるというのはその代表的なものです。人間の血と肉を口にするなんて、普通の感覚で考えたら、ものすごくおぞましいことです。それは古代密儀宗教の儀式の名残です。
古代密儀宗教には様々ありますが、一つ共通して言えるのは、一度死んで生まれ変わる経験を宗教的に儀式化して、教義の中心としていることです。一度死んで生まれ変わること、それは通過儀礼(イニシエーション)です。キリスト教の最も重要なテーマ、それはイエスの復活です。
ローマ教会では歪められて、冬至の日であるクリスマス(聖誕祭)が最も重要な儀式となりましたが、古いキリスト教が受け継がれているギリシャ正教会では、春分の日であるイースター(復活祭)こそが、最大にして盛大なお祭りの日です。
では、なぜ、復活、つまり死と再生が最も重要なテーマになるのでしょうか?
その答えを導くためには、人が大人になるということはどういうことなのか、を考える必要があります。

人は子供のときから様々な学習を通して、知識を身につけます。しかし、知識だけ持っていてもまるで精神が成長していない子供のような大人もいます。皆さんの知っている大人にもそんな人はいるでしょう。
そこから次のステップに進むには非常につらい経験をしなければいけません。それはある意味死と同じ経験です。(それについてはここでは詳しくは書きません。なぜなら、それは自分自身で獲得しなければならないからです。)
その経験を多少強引なやり方で考えさせるのがバンジージャンプなどの通過儀礼です。バンジージャンプはポリネシアのイニシエーションです。まさに一度死ぬ体験をして、大人の仲間入りが許されるのです。
イエスもゴルゴダの丘で磔刑にされ死んだ後、三日後に復活しました。これをとって、非科学的であるとか、信ずるに値しないなどというのは間違っています。それは古代密儀宗教を踏襲した象徴としての復活・再生なのです。

聖書に記されているイエスの行動の記録をみると、それはまるで一人の魔術師のようです。盲を見えるようにしたり、癩病患者を治したり、少ない魚やパンを大勢の人に行き渡るように増やしたり、死者を生き返らせたりしています。モーセやエリヤ、エリシャなど、旧約の預言者たちも魔術師そのものです。
多くのオカルティストたちは、魔術は神の領域にあると考えました。彼らにとって魔術とは神を真に理解する一つにして最高の手段なのです。そういう認識が生まれてしまうことは、聖書という教典の記述から言っても仕方のないことでした。彼らが、自分たち自身のことを「よきキリスト教徒」というのはこのためです。
キリスト教は儀式の性質や、教典が非常にオカルト的なのです。オカルトを生み出す一つの装置だと言ってもいいでしょう。
そんなキリスト教の教会が、オカルトを否定して弾圧し続けたのは矛盾する行為でした。その矛盾が魔女裁判や異端審問などの滑稽とも思える多くの悲劇を生んだのです。しかし、それらのほとんどは政治的な意味を持つものであり、本来のキリスト教の考え方が間違っているからではありません。

最後にヨハネの黙示録についても書いておきましょう。
黙示とは、啓示と同じ意味です。新約聖書の最後に載っている、この非常に難解な比喩表現に満ちた聖典は、自らを啓示の書だと言っています。怪物が登場し、この世の終わりが来ると書かれているこの聖典を、全く使わない神父や牧師がほとんどでしょう。
最後の審判の日、天使たちのラッパが鳴り響き、この世界の終わりが来ます。しかし、これも終わりではありません。再生のための死です。最後の審判の後、新しい世界(ニューエルサレム)が作られると書かれています。このニューエルサレムこそ、魔術師たちの目指すものとされました。つまり、魔術的に啓蒙された新しい世界です。黄金の夜明け団という魔術団体が存在しますが、その黄金の夜明けとは、ニューエルサレムの別称なのです。

キリスト教について詳しく書こうと思ったら、オカルトとの関係だけに絞ったとしても、膨大な量になるでしょう。ここで取り上げたのはほんの一部分です。
ただ、このコラムが、みなさんのキリスト教に対して抱いているイメージを変える一つの機会になれば、と思っています。
ちなみに私はキリスト教徒ではありませんし、なにか特定の信仰を持っていないということを書いておきましょう。